面倒見について

笛と私と図書館と: AERA今週号より 面倒見のいい大学?を読んで、図書館に届いた今週のAERAをぱらぱらめくってみました。私はこのAERAみたいな取り上げ方も「アリ」と考えています。
以前は偏差値とか就職実績とか研究内容で大学を選んでいたのが、「面倒見」でも選べるようになってきたということです。選択肢があるということは、単純に良いことだと思います。
やや歯に衣を着せない言い方になるかもしれませんが、ひとことで「大学」と言ってもピンキリで、失礼ながら「ピン」と同列に扱うのをはばかられるような「キリ」の大学もあるわけです。そんな「キリ」の大学でも、入ってきた学生を4年後にはどうにか労働力として社会へ送り出す使命があります。
しかし、そういうところの学生ですから、「求めよ、さらば与えよう」と言って待っていても、求めて来てくれる望みは薄い。かといって放っておいたのでは、かつてのように企業の側に余裕があればともかく、即戦力志向が強い今では、まともに就職してくれる望みもこれまた薄い。
ニート・フリーター・早期離職の増加が問題となっていますが、背景の一端にはそういった層を放置してきたことがあると考えられます。それらの予備軍に対しては、大学がある程度「面倒見」良くすることでポテンシャルの底上げをしてやることが、社会全体にとっても必要なのではないかと思います。
もちろん、先端的な研究をやるところ、高度な専門家を養成するところでは、よけいなサービスなどより、最先端・専門的な研究の現場を見せてその中に放り込むのが一番でしょう。ただ、すべての大学・すべての学生がそうであるわけではなく、ホワイトカラー養成機関としての大学も多数あるのも現実です。大学以外に適当なホワイトカラー養成機関が少ないこと、企業あるいは社会全体でも依然として「大卒」がひとつの指標となっていることを考えると、大学が能動的に学生の支援育成に関わっていくことが求められるのではないでしょうか。